流行歌、クイズ番組などの他に放送劇というジャンルがあった。
 音声だけで構成されているドラマであるから、テレビ時代の今日からみればどのように受け取られるのか分からないが、当時は幾つかの放送劇が人気番組として多くの人に聴かれたのである。
 その番組の放送時間になると女湯が空っぽになると云われた「君の名は」と言う番組はその典型であった。
 戦時中にふと知り合った二人の若い男女のその後のすれ違いをテーマにした内容であったと思うが、少年向きのドラマではなかった。

                                                                     
                           えり子2                          えり子1
                  えり子

 上の右図は、昭和24年(1949年)10月から始まった「えり子とともに」と言う放送劇の台本が書かれた書物の表紙の図である。左の図は見開きの絵、下の写真ははスタジオでの放送の風景である。                 
 この放送劇がどのくらいの人気番組であったか分からないが、私が聴いた放送番組の中ではもっとも心惹かれた番組である。
 妻を亡くした大学教授と20台半ばくらいの娘やその周辺の人々との平凡な日常生活を描いたものであったが、何気ない会話の中にも独特な雰囲気があるように思われ、毎回聞き終わる度に不思議な幸福感を感じたような気がしたものである。
 娘役を演じたのは声優の阿里道子だったが、マイクロホンから聞こえて来る声に何とも言えない魅力があり、今考えてみると、姿形が見えない分、イメージが膨らんだのかも知れない。
 現在でも時々耳にする「雪の降る街を」という歌はこの放送劇の番組で生まれた劇中歌である。
 なお、声優の有里道子は 先の「君の名は」のヒロインである「真知子」役としても出演していたとのことである

          

 

 終戦後、ラジオ放送もGHQの統制下におかれ、番組の内容はすべて事前に "CIA" (民間情報教育局)の検閲を受けなければならなかった。

 後に人気番組となった日本初のクイズ番組「話の泉」はCIEの指導の下に、アメリカで放送されていた "Information Please" の日本版として昭和21年2月から始まった番組である。
 全国の聴視者から寄せられた質問の問題を和田信賢アナウンサーが司会者として出題し、ゲストの回答者が答えるという形式であった。

 回答者には音楽評論家の ”堀内敬三”、詩人の”サトウハチロー” など、当時の著名人数人が出演していたが、司会者と回答者間の当意即妙のやり取りが面白く、毎週欠かさずに聞いたものである。

 因みに、司会の和田信賢アナウンサーは、昭和14年の1月場所で相撲の双葉山が70連勝を阻まれた時の実況放送を担当、また昭和20年8月15日に放送された、いわゆる昭和天皇の ”玉音放送” の後、ポツダム宣言受諾文の全文を朗読したという経歴の持ち主であった。

 その後、昭和27年に行われたヘルシンキ・オリンピックに派遣されたが、病のため、ひとり寂しくパリの病院で亡くなったとのことである。

 「話の泉」の他に ”二十の扉” というクイズ番組があり、これも人気番組となったが、「話の泉」と同じく CIEがアメリカの "twenty Questions" というクイズ番組をNHKに持ち込んだものである。 

 昭和21年の11月に北朝鮮から引き上げて来て久し振りに耳にしたラジオの音に感激したが、自分で作ったラジオ受信機で聴く放送もまた楽しいものであった。
 テレビ放送が始まるまでの間は、ラジオを聴くのが唯一の楽しみであったが、今思い出してみると幾つかの歌や番組が懐かしさと共によみがえって来る。
 なかでも、引き揚げて来た当時流行っていたのが ”リンゴの唄” であった。作詞者のサトーハチローは、(昭和)天皇の気持ちをリンゴに託して書いたというのが当時の専らの噂であったように記憶している。

 歌という範疇には入らないかも知れないが、月曜日から金曜日までの毎日、夕方6時から15分間の英会話教室のテーマ音楽として放送されたのが、”証城寺の狸囃子”の英語の替え歌 ”カムカム エブリボディ” である。元唄の歌詞とは何の関係もない英語の替え歌で意味もよく分からなかったが、原作の滑稽さを超えたような趣が当時の英語ブームと相俟って人気を呼んだようである。

 英語の替え歌がどのようなもであったか調べてみたが、最後の
 ”Sing trala la la la" の部分が、少年時代の昔も今現在も ”ピーヒャラ ラー ラー”に聞こえてしまうのである。

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